通奏艇音

この売文野郎

雨道【ショートショート】

 

 なんか今日どしゃ降りの雨が降ったので。

 

 

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「例えばじゃあここに、みずみずしい綺麗な葉っぱが一枚あったとする。」

 瑞樹はそういって、水に濡れた生白い手のひらをぷらぷらと振った。筋張ったところのないやわい手の指の先から雫が飛び出していく。

「おまえならそこで、何かしたくなる?」

 そして瑞樹は急に立ち止まり、俺の方を振り返り、まっすぐに俺を見据えた。

 何か物言いたげな鋭い視線が俺を見透かそうとしてくるが、雨に阻まれて顔がよく見えない。もう長いことざあざあと、盥をひっくり返したような雨が続いている。大粒どころでない雨粒が、傘も地面も俺のズボンの裾も見境なく濡らし、俺の黒い傘の端から滝のように水が流れ落ちる。それでも、瑞樹の特徴的な硬質の声は、こんなどしゃ降りの只中でもはっきりと届いた。 

「どうって…。」

 俺には何も思いつかなかった。

 そもそもの問いの意図も、よくわからない。

 逡巡して目線を下げた俺を見かねて、瑞樹はまた歩き出した。

「まあなんとなく、聞いてみただけだけ。」

 そういって、ついと瑞樹は顔を背け、何事もなかったかのようにいつもの瑞樹に戻った。

 瑞樹のニスの剥げたような、艶のない髪が湿気を吸ってぱらぱらと広がっている。それが、歩くごとにさらさらと揺れて形を変えた。落ち着いた花柄の白い傘をくるくると回す姿は、どちらかというと能天気ないつもの瑞樹の性格からは程遠いが、足取りの大胆さはいつものそれだ。俺も瑞樹も、履いているのはしっかりした作りの長靴じゃない。俺はただのスニーカーだし、瑞樹のは薄汚れた桃色の簡素な運動靴に過ぎない。それなのにそんな防御の甘い靴のまま、瑞樹は躊躇いなく、黄土色の泥が沈んだ水たまりに踏み込むから、靴はすっかり水を吸って汚らしく見える。

「…いや、どうもしないかな。」

「えー。」

 瑞樹が不満を唱えるように、立ち止まって俺を振り返る。

「むしろ葉っぱ一枚で何ができるって言うんだ。」

「わからないだろ。葉っぱだぞ。頭に載せたらなんかに化けられるかもしれないじゃん。」

「そんなわけないだろ。狸じゃないんだから。だいたい葉っぱなんてありふれたものでそんな魔法ができたら、世界がおかしくなる。」

「えー、それじゃあ、特定の葉っぱならいいの?」

「…いや、良かないかな。」

「おまえ夢がないよなー。というかさ、せめてもうちょっと捻りのある答えを探そうとしてくんないかな。話題が広がんない。つまんない。」

「ならせめて、もっと脈絡のある問いにしてくれないかな。」

 そうは言うものの、瑞樹は特にぶすくれた様子も見せずに、軽快な足取りで歩を進めていた。俺はまたいつものように、足早な瑞樹の後ろをついていく。

 高い木々の居並ぶ土っぽい道には、既に気の早い黄色い落葉が、まばらに散らかって闇に覆われている。灰色を塗り固めたような、形状のない雲に覆われた空は、光源がなく、並木道は昼とも思えぬような薄闇に満たされていた。

 暗い暗い、自然の道。

「だってさ、こんなに暗いと、どこかに行きたくなる。」

 元気で、溌剌としていた瑞樹は傘の内側までしっとりと湿気っていて、萎れた植物のように見えた。白い傘をくるくると回して、黒い林のように続く並木道のシルエットを背にして、瑞樹は言葉を続ける。

「行きたくなるじゃん。葉っぱ一枚使って、どこか別の場所に飛び去ってしまえるなら、私は、すぐにでも、」

 そういって瑞樹は手近の木に近寄って、手を伸ばして、乱暴に葉を一枚むしった。瑞樹が葉をむしる時、傘の外側に腕が出た。それでまた、瑞樹の手はびっしょりと濡れた。

 丸っこくて無駄のない紡錘状の葉は、食い破られたところもなく、いかにも健康そうに見えた。

 

 瑞樹はしばらく、その葉を眺めていたが、何が気に入らなかったのか、葉の面に爪を立ててぐしゃりと潰して、捨てた。

 

「でもそうだよな…やっぱりおまえが正しい。」

 泥のような低い声を出して、瑞樹ははっきりと嫌悪を示した。

 

「みずみずしい葉っぱ一枚じゃ、なにもできない。」